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第一次大戦後、戦争狂に走った日本外交

2014.05.02.09:50

 第一次世界大戦が一九一八年十一月に終わり平和が到来したとき、第二次世界大戦の芽が大きく芽吹いていた。平和とは、戦争と戦争の合間に訪れる息継ぎのようなもの。だから、この平和の期間を永くすることが外交や国際政治の要諦である。

 第一次世界大戦後に、永続する平和を最も正しく模索できたのは、英国のウィンストン・チャーチルであろう。英国の地政学者マッキンダー博士はこれに次ごう。「第一次世界大戦がもたらしたヨーロッパの平和は二十年の息継ぎで終わる」と喝破したのは、フィンランドのマンネルハイム元帥であった。

 “国際政治の天才”チャーチルは、①平和維持能力があるかの幻想を振りまく国際連盟と②各国のパワーバランスの努力を否定する条約で締結される軍縮が、ヨーロッパの安定と平和に対して癌的な阻害要因となると獅子吼した。また、③共産主義・社会主義イデオロギーがこれからの世界平和の主敵になると世界に向けて警告を発した。世界情勢が透けて見えるチャーチルにとって、「バランス・オブ・パワーのみが平和機能をもつこと」、および「<社会主義イデオロギー=戦争のドグマ>こそ真理」という、二つの国際政治の原理原則は、論じる前に自明だった。

 第一次世界大戦の終了とともに、チャーチルは、a一九一九年から、レーニンとソ連に対する非難を激しく開始しソ連を潰すべく対ロ革命干渉戦争を唱導し、次にb学術的にも最高の水準で国際連盟有害論/軍縮平和破壊論を展開し、c一九三三年にヒトラー政権が誕生するやヒトラーが英国に必ず侵攻してくることを正しく予見して英国の国防増強をイギリス国民に口酸っぱく訴え続けた。

 一九三九年九月、ヒトラーがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発したとき、チャーチルの二十年に及ぶ厖大な演説や活字には一箇所として外れたものがないことが証明された。①②③は確度百%で的中した。外交・軍事での“不世出の天才”と言えばチャーチルを指し、チャーチル以外には存在しない。人類史上の常識である。 

第一次世界大戦が終わった瞬間、東アジア安定と秩序の破壊に驀進した日本

 第一次世界大戦後、世界ではチャーチルをはじめ、慧眼の士が数多く輩出した。が、日本では、そのような人材は出なかった。そればかりか、東アジア(西太平洋)の安定が日本の国益とわかる凡庸な常識人すら、日本の政界・官界・言論界ではごく少数だった。第一線の政治家では、ワシントン会議の加藤友三郎(首相)、一九三〇年のロンドン海軍軍縮条約を締結した首相・若槻礼次郎を最後に、日本の国益がわかる者はゼロとなった。友三郎や礼次郎は、戦間期日本の最後の良心であった。

 すなわち、第一次世界大戦の終了とともに、日本では“戦争狂の狂人”ばかりが国中を跋扈した。日本と世界の安定のためには、例えば、①日米英海軍同盟がベストであったが、日英同盟恐怖症のウィルソン/ハーディング米国大統領を説き伏せ、四ヶ国条約(一九二一年)の締結延期・棚上げを同意させるに全力をあげた日本の政治家/外交官/軍人は一人もいない。

②「シベリア出兵」のついでに、ⅰ 一九一八年に北満洲の権益をレーニンに譲渡させ満州帝国を建国し、ⅱ 一九二〇年に北樺太を割譲させることは、日本の国防上絶対必要だったし容易に可能だったが、陸海軍のトップ軍人で前者を発想した者はゼロ。後者については日本海軍が絶対反対した。帝国海軍は、一九二〇年時点、世界も自国の国防も見えない“盲目の海軍”へと成り下がっていた。

 人格障害に病む山本五十六が率いる帝国海軍は、一九四一年十二月、“日本国の自殺”パール・ハーバー奇襲攻撃を敢行したが、ニコライエフスク港日本人大虐殺(七百名、一九二〇年三月)に対する(北樺太の領土割譲で支払えの)対ロ賠償要求を放棄せよと異常な行動に走ったことにおいて、帝国海軍とは、一九二〇年時点で、日本国を破壊したいだけの“狂気の海軍”になっていたのがわかる。

 話が①に戻るが、このように、日本の国益を毀損する方向の逆立ち外交しか発想しない帝国海軍は、英米との同盟的な協調が国際平和に寄与することを理解できない無法者へと変貌していた。軍事合理的にも日本の方が格段に有利だから、ワシントン海軍軍縮であれ、続くロンドン海軍軍縮であれ、両条約に反対する理屈など存在しえない。が、日本の孤立と世界の不安定を招く“米英との海軍軍縮を拒絶する”逆方向に、一九三〇年代の帝国海軍は一気に暴走した。海軍の上層部では、日本の国益が消滅していたし、「日本国なんぞ破壊尽くせ」の“反日の狂気”の方が、紅蓮の炎と燃え盛っていた。

 ③隣国・支那とは“一定の距離をおく、醒めたお茶の関係”がベストで、大中華思想という毒ある国家・支那には決して従ってはならないが、支那を日本に従属させる関係も避けねばならない。が日本は、日本が厳守すべき対支外交のこの一大鉄則にみずから違反して、一九一五年一月、「対支二十一ヶ条の要求」を突きつけた。支那に対する日本外交があるとすれば、満洲とモンゴルとウィグル(東トルキスタン)とチベットを、漢族から絶対分離する漢族包囲が基幹。これに優る対支外交など存在しない。 

「レーニン万歳!」の声に覆われた、日本自身による反日外交

 第一次世界大戦後の日本外交で正常の範囲にあったのは、ワシントン海軍軍縮条約(一九二二年)とロンドン海軍軍縮条約(一九三〇年)の締結ぐらいか。それ以外はほとんどない。

 そればかりか、ロンドン海軍軍縮条約の締結が、日本の極左社会主義陣営の「反日」行動の正当化に悪用されるに至った。このためロンドン海軍軍縮条約の締結以降、日本には正常な外交など不可能になった。国際連盟からの離脱(一九三三年)、日独伊三国同盟の締結(一九四〇年)、日ソ中立条約の締結(一九四一年四月)など、日本は完全に狂ってしまった。

 一九四一年七月、南部仏印に軍を進駐させた「南進」という、日本の国家自滅への狂気は、一九一九年に始った狂気の日本外交の集大成だった。米国の石油禁輸は(一九四一年八月)、日本を覚醒させる最後の“神の見えない手”だった。が、日本政府にも陸海軍にも、そう考える良心も愛国心も消えていた。昭和天皇が、明治天皇の御製「四方の海みなはらからと思ふ・・・」を御前会議(一九四一年九月六日)で朗誦されたのが、戦間期日本の最後の残光で、最後の“日本の偉大な良心”だった。
 
 要するに、日本外交の迷走と狂気は、一九一九年の韓国独立の拒絶や一九二五年の日ソ基本条約の締結など、第一次世界大戦の終了と同時に爆発的に始っていた。韓国併合を止めて北満洲へ「北進」することが“日本の国家安全保障にプラス、日本の経済にプラス”なのは明瞭。が、そんなチャーチル的な正統な外交は、日本では煙ほども存在しなかった。

 「韓国併合」を一九一九〜一九二六年の間に終了させておくことは、明治天皇が愛してやまなかった(日本陸軍軍人として育った)皇太子・李垠の即位式を挙行し韓国を王制に戻すことだから、これこそ日韓関係には半永久的な磐石が築けただろう。しかし、このような健全な対外政策は、当時の日本のどこを捜しても、発想すら片鱗も存在しない。

 代わりに、日本を覆ったのは、社会主義思想・共産主義思想からの「レーニン万歳!」であり、「日本はソ連の属国になろう!」ばかりの“反日外交”の雄叫び。これらの狙いは、むろん日本の社会主義/共産主義革命。当然、日本の社会主義化/共産革命を阻害する“日本の英米との協調外交”路線は、「反・革命」「反・戦争」であることにおいて、罵倒されるように排除された。

  “スターリン直属のソ連工作員”河上肇(日本共産党員)が直接教育し洗脳したコミュニスト近衛文麿が、一九三七年七月七日、首相として独断主導で決定した、不必要な上に国益毀損はなはだしい対支戦争は、日本を共産革命するのが主目的だった。むろん日本がソ連の属国になることも含まれていた。英米排除もしくは英米敵視の外交は日本の亡国以外のいかなる情況にもなりえないが、こんな常識を知る者は、一九三七年時点、幣原や吉田など外務省の一部を除けば、日本には“若き大帝”昭和天皇おひとり以外、ついにゼロになっていた。


中川八洋筑波大学名誉教授の論文“強度の共産主義シンパ”西尾幹二を「保守」という冗談(ジョーク)──“歴史の偽造屋”西尾幹二の妄言狂史(Ⅷ)を、中川文体の入門者用に易しくしてみました。
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